ある朝目覚めたら、私の世界は反転していた。
ピピピ、ピピピ。
「う~ん、もう朝か。」
私は枕元にあるスマホのアラームを止めて大きく伸びをした。
ベッドから起きてカーテンを開けると、眩い光が部屋を包んだ。
「うん!今日もいい日になりそう。」
私はドアの手間にある鏡にニコっと微笑んで部屋を出た。
「おはよう、ママ。」
「おはよう、エリカ。
ご飯できているわよ。」
机の上にはホカホカのトーストがあった。
イチゴのジャムをたっぷり塗ってかじると、サクッと口の中で響く。
「今日も焼き加減ばっちりだよ!!」
「ふふ、ありがとう。」
お母さんは淹れたてのコーヒーを飲みながら微笑んだ。
あぁ、なんて素敵な朝だろう!!
私は牛乳を飲みながらそう感じた。
「それじゃ、行ってきます!!」
私は家を出て右に曲がった。
そこにはバス停があり、金髪の少女が立っていた。
「おはよう、ナオミ。」
「うん、おはようエリカ。」
ナオミは必ず私よりも先にバス停にいる。
「今日の1時間目って何だっけ?」
「数学よ。宿題やって来た?」
ナオミの返事にギクッとする。
「ごめん、ナオミ。後でノート・・・。」
「もうしょうがないな。」
「ありがとう!!帰りにマフィンおごるよ。」
すると角からオレンジのバスがやって来て私たちは乗り込んだ。
「それで、あの本は進んでるの?」
隣の席に座ったナオミがこちらを見て来た。
「うん、ちょっとずつだけどね。」
私はカバンから白い本を取り出して見せた。
左が表表紙の本にはネコの絵が描かれている。
「ケンタから借りたけど、なかなか難しくて。」
「だって外国語で書いてあるんでしょ?
私なんて読もうとも思わないわ。」
ナオミは手に取った本を開くが、すぐに返された。
「辞書がないとまったく分からないけど、面白いよ。
ネコが主役の話でね。」
あらすじを語っていると、あっという間に学校に着いた。
その日の授業はいつもと同じで退屈だった。
けれど、ナオミや他の友達と一緒なだけでとても楽しかった。
ガチャ。
「ただいま!!」
「あら、エリカおかえり。学校楽しかった?」
居間で雑誌を読んでいたお母さんがこちらを見上げた。
「うん、とっても!!」
私が元気よく答えると、ニコっと笑ってまた視線が雑誌に戻った。
部屋に上がり、ふと視線に入った私を見る。
一瞬疲れているような顔をしたが、みんなを思い出したら自然と笑顔に変わっていた。
「こんな幸せな毎日が続けばいいなぁ。」
私は鏡の奥の自分に言い聞かせるように呟いた。
翌朝、ふと目が覚めてスマホに手を伸ばす。
「あれ?スマホがない?何で?」
無意味に手をスライドさせて寝返りをしたら、スマホが手に当たった。
「あ、ここにあった。今の時間は・・・10時5分!?」
私はガバッとベッドから起き上がると、目の前には壁があった。
その勢いは止まらず、壁に顔面ごとぶつかってしまった。
「痛い!何でここに壁が?」
鼻を押さえながら振り返ると、部屋が広がっていた。
しかしいつも右手にあった窓が左手に、その向かいにあるドアも右手にあった。
それは、自分の部屋でありながら、違和感の塊でしかなかった。
「部屋の配置がめちゃくちゃだ。
昨日模様替えしたっけな?」
とりあえずベッドから降りて部屋を出た。
しかし、廊下の右手にあるはずの階段はなかった。
代わりに左手にある階段が下へと続いていた。
「一体何が起きてるの?」
私は恐る恐るゆっくりと階段を降りていった。
若干頭がくらくらしながら居間に入ると、お母さんがトーストを食べていた。
「おはよう、ママ。何か変なの。」
私は頭を押さえながら声をかけた。
「あぁ、エリカ。早いのね。おはよう。」
お母さんはこちらを見もしないでスマホを眺めていた。
「早いって。そうだ遅刻しているんだった!!」
大事なことを思い出して、急いで冷蔵庫に向かうと、
「何言っているの。まだ5時よ。寝ぼけてるの?」
お母さんの視線を追って外を見ると、まだ外は暗いままだった。
「あ、あれ?寝ぼけていたのかな?
今日はおかしいな。ははは。」
私の乾いた笑いにも耳を貸さず、お母さんは黙々とトーストをかじっていた。
「ママ。私にもトーストを・・・。」
「それくらい、自分でしなさい。それじゃ、私は行くから。」
そう言ってお母さんは食べ終わった皿を食洗器に入れて出て行ってしまった。
「ママ、私何かしたのかなぁ。」
一人で食べたトーストはやけに湿気っていた。
「いってきます・・・。」
返事のない家を出て学校に向かう。
「一体何が起きているの。部屋もお母さんもみんな違う。」
私は俯きながら、心がぐしゃぐしゃになるのを必死に抑えていた。
「そろそろバス停か。」
ようやく視線を上げると、いつもと違う景色だった。
「あれ、もしかして逆に来ちゃった?」
きょろきょろしていると、後ろにバスが来ているのが見えた。
「待って、待って!!乗ります!!」
私は走って道を引き返す。
「あ、ナオミ!!バスを止めて!!」
バスに乗り込もうとした彼女はパッと私を見た。
しかし表情一つ変えることなくバスに乗り込み、私を置いてバスは出てしまった。
息を切らして見送る私に、彼女は冷たい視線で見降ろしていた。
それは、胸を剣で突き刺すような痛みを感じさせた。
「まだバスがあってよかった。」
次のバスの席に座った私は胸を撫でおろした。
しかし心の黒いモヤモヤがぐるぐると渦巻く。
「そうだ、こういう時こそ。」
私はカバンから借りていた本を取り出した。
「え?なにこれ??」
何と表紙と裏表紙が入れ替わっていた。
恐る恐る本を開くと、文字の並びも逆になっていた。
「こ、これじゃとても読めない。」
乱暴に本をカバンに押し込んで、ため息をついて窓の外を見る。
するとさらに違和感を感じた。
「あれ、このバス、右側走ってない?」
この車だけじゃない、道行く車すべてが右車線を走っていた。
「ありあない、こんなの。まるで世界がひっくり返ったような。」
すると私の中で部屋やバス停の位置、先ほどの本が頭に一気に浮かんだ。
「もしかして、本当に全部逆になっているの?」
頭が真っ白になった私を乗せたまま、バスは違和感しかない町を走った。
学校に着くと、やはり右左逆になっていた。
いつも歩く道の逆を考えないといけないので、ところどころ足が止まってしまった。
どうにか教室に着くと、ナオミは一人で教科書を用意していた。
「おはよう、ナオミ。朝置いていくなんて酷いよ。」
隣の席に座って話しかけたが、何も答えてくれなかった。
「ねぇ、ナオミ。ちょっと変だよ。何で無視するの?」
彼女の手首を掴むと、のけぞるように彼女が立ち上がった。
「いきなり何するの?急に馴れ馴れしくして。
私たち話したことないでしょ?」
「ナ、ナオミ・・・。どうして。」
私は引き剝がされた手を宙に浮かせたまま固まった。
「ご、ごめんね。いきなりこんなことして。」
私は教科書を机にしまい、それからは彼女を見れなくなった。
「もう何が何だか分からないよ。」
学食の隅で私は一人、パスタを食べていた。
「みんなは友達と一緒なのに、私は何で一人なんだろう。」
遠くで他の友達と笑顔にしているナオミを見ると、涙が出そうになった。
「よう、エリカ。変わった食べ方しているな。」
見上げるとケンタが向かいに座っていた。
「やあ、ケンタ。私の食べ方が何?」
頑張って口角を上げたが、ちゃんとできているか自信がない。
「だって、お前さ。なんで右手で食べてるの?
普通フォークは左手で食べるものだろう?」
「え?そうなの?ずっとフォークは右で、ナイフは左だけど。」
私がきょとんとした顔をしていると、ケンタは目を大きくした。
「嘘だろ?逆だよ逆。フォークは左、ナイフが右だよ。
そうだろ?ジョン。」
ケンタは近くでハンバーガーをかじっていた金髪の少年に声をかけていた。
「当たり前だろ。お前生まれも育ちもここアメリカじゃないのかよ。」
「え、そうだけど。そんなにおかしい?」
「ありえないね。ま、俺は初めて見て新鮮だけど。」
ケンタは笑って左手のフォークでトマトを口に運んだ。
「あ、けど俺がいた日本なら右手でフォーク使う人もいたか。」
「そ、そうなんだ。そう言えば借りてた本なんだけど、変なの。」
そう言って私はカバンから本を取り出した。
「今朝見たら表紙が右にあるし、文字も右から始まってるし。」
ケンタは本を手に取り表紙をしげしげと眺め、パラパラとページをめくった。
「いや、別におかしなところはないよ。
縦書きの文章だから、表紙は右だし、読むのも右からだよ。
それより面白いでしょ。『吾輩は猫である』。」
「う、うん。とっても。日本語は難しいけどね。」
「まだ借りていていいから、ゆっくり読むといいよ。」
そう言ってケンタは本を渡してくれたが、受け取る私の手は震えていた。
カバンに本を入れたついでにスマホを見て私は飛び上がった。
「え、もうこんな時間?授業始まっちゃうじゃん。」
慌ててトレーを持つ私をポカーンとケンタが見つめる。
「何言ってんだよ。まだ12時半だろ。あと30分あるぞ。」
「そんなことないわ。ほら、13時21分って。」
私がケンタにスマホを見せると、ケンタは眉間に皺を寄せた。
「お前、何言ってんだ。何で左から読んでるんだよ。
バカなのか?」
「いや、だって。普通右から左に読むでしょ、文字って。」
その言葉でケンタの目は細く鋭くなった。
「お前さっきからおかしいよ。左から読むに決まってるだろう。
そんなのアルファベットも数字も同じだろ。
おい、ジョン。俺もそっちに行っていいか?」
ケンタはプレートを持って離れていった。
そして私は再び一人でパスタを食べた。
夕方、オレンジのスクールバスを降りて私は家の前に来た。
表札にはスミスと書いてあるのだろうが、まともに読めない。
「ただいま。」
重いドアを開けて家に入ると、
「おかえり、エリカ。愛しい娘よ!!」
お父さんが居間から飛び出して私に抱き着いた。
「え、パパ?何でいるの?フランスじゃないの?」
頬を伝うじょりじょりとしたヒゲの感触から逃げる。
「何言ってるんだ、エリカ。お父さんは家で働いてるじゃないか。」
「それにそんな陽気な感じでもなかったでしょ。」
ヒゲ攻撃がしつこいので、ついに手で押しのけた。
「つれないな、エリカは。パパはいつだってこうだろう?
それより、エリカどうしたんだい?何か辛いことでもあったか?」
お父さんが膝を曲げて私の顔を覗き込んできた。
「な、何でもないよ。疲れてるだけ。」
「それにしても酷い顔だ。パパ心配だよ。」
「もう、いいから。カバン置いてくる!!」
ドタバタと階段を上り、壁に当たった鼻を押さえながら、バタンと勢いよくドアを閉めた。
「もう全部めちゃくちゃ。私どうちゃったの?」
涙を流しながら鏡を見ると、なんと私は笑っていた。
そして笑顔の私が突然口を開いた。
「ありがとう。入れ替わってくれて。
あなたの世界は素敵だわ。」
「な、何で鏡の私が話しているの?」
鏡に近づくと、中の私はニタニタと笑う。
「それは違うわ。鏡の中の住人はあなたよ。
あなたが本来の世界に行っただけ。」
「どうしてそんなことをしたの?
そのせいで、私みんなから嫌われたわ!!
ママもエリカも、みんな私に冷たいの!!
こんなの、胸が張り裂けそうよ。」
私は必死に胸を押させて涙をこぼした。
鏡の中の私は、いつの間にか表情が消えていた。
「そう、それが私の、私たちの本当の世界よ。
学校には友達がいない、それが本当の私なのよ。」
「そんな、私を元に戻してよ。幸せな毎日を返してよ。」
私は壁を思い切り叩きながら訴える。
しかし鏡の私はニタニタ笑う。
「そんなの嫌に決まっているでしょ。
こんな幸せな世界、手放せないわ。
それじゃ、頑張ってね。」
そう言うと、目の前には目元が真っ赤に腫れた私が映っていた。
「そ、そんな。」
私は床に膝をつき、手を覆って泣き続けた。
「お、おはよう。ナオミさん。」
翌日、スクールバスの彼女の横に座った。
「おはよう。エリカさん。」
そう言いながらも彼女は窓際ににじり寄った。
「昨日はいきなり触ってごめんなさい。
私おかしかったわ。」
「い、いいのよ。私もビックリして酷いこと言ったわ。」
彼女は窓の外を見つつもチラチラと私を見た。
「ううん、私が悪いの。よかったらお話したいな。」
「いいわよ。学校までまだ距離あるし。」
「ありがとう!!」
そして私たちはゆっくりと話し始めた。
3カ月が経ち、ようやく私も左から文字が読めるようになった。
「ただいま!」
「おぉ、エリカおかえり!!パパ寂しかったよ~。」
「エリカおかえり!クッキー焼いたけど食べる?」
「うん食べる!!」
ママとは少し前に大喧嘩した。
なんで私に冷たいのって聞いたら、本音のぶちまけ合いが始まった。
パパはおろおろしていたけど、私たちにはこれが一番だった。
「今日は学校どうだった?」
「うんとっても楽しかったよ、ママ。」
コーヒーの湯気の向こうでお母さんは微笑んでいた。
「ちょっとカバン置いてくるね。」
二階の部屋に入り、ふと鏡を見つめた。
「ねぇ、そっちの世界はどう?」
すると笑顔ではない、もう一人の私が浮かび上がる。
「私は、今とっても幸せよ!!」
ボーっと立つもう一人の私が恨めしそうに私を見ていた。
「こっちの世界は散々よ。元の世界に帰して!!」
聞こえた私の声に振り向いた。
「嫌よ、あなたも頑張れば世界をバラ色に変えられるわ。」
そう言って私は階段を駆け下り、温かい居間に入った。